親神様のご守護に感謝をささげる自発的な行為が「ひのきしん」です。
一般的には、寄進は「社寺などに金銭・物品を寄付すること」(『広辞苑』)を意味しますが、
なにかめづらしつちもちや これがきしんとなるならバ
(みかぐらうた 十一下り目七ツ)
と、本教では身をもってする神恩報謝の行いをも寄進としてお受け取りくださるところに、ひのきしんの面目があります。
従って、貧富や老若男女の別なく、真実の心一つでだれにでもできるものです。
「日々常々、何事につけ、親神の恵を切に身に感じる時、感謝の喜びは、自らその態度や行為にあらわれる。これを、ひのきしんと教えられる」(『天理教教典』)
とあります。すなわち、ひのきしんは、日々の絶えざる喜びの行いであり、その姿は千種万態です。
信仰のままに、感謝の心から、喜び勇んで事に当たるならば、それはことごとくひのきしんとなります。
やしきハかみのでんぢやで まいたるたねハみなはへる
(みかぐらうた 七下り目八ツ)
とありますように、ひのきしんは本来、おぢばへの伏せ込みを第一義としますが、その理を受ける教会への伏せ込みや、より広義には親神様のお喜びくださる行いすべてをも指すということができます。
ひのきしんに漢字を当てると日の寄進となるところから、一般には「日々の寄進」と解されていますが、「日を寄進する」、すなわち、一日の働きをお供えすること、という解釈もあります。いわば、時間のお供えです。まさに時間は貧富の別なく平等に与えられています。
「たすけとても一日なりともひのきしん、一つの心を楽しみ。たすけふしぎふしん、真実の心を受け取るためのふしぎふしん」
(おさしづ 明治23年6月15日)
道友社刊『ようぼくハンドブック』より