天理教の教祖は、中山みきという女性です。
「教祖」と書いて、「おやさま」と読みます。
教祖中山みき様は、立教以来50年にわたり、「月日のやしろ」として、親神様の思し召しを私たち人間にお伝えくだされたばかりでなく、自ら身をもって、たすけ一条の手本をお示しになりました。その道すがらを「ひながたの道」と呼び、教祖を「ひながたの親」とお慕いしています。
明治20年(1887年)陰暦正月26日、子供の成人を促すべく現身をおかくしになり、お姿を拝することはできなくなりましたが、それまで同様、元の屋敷にお住まいになり、変わることなく世界たすけの上にお働きくだされています。このご存命のままにお働きくださることを、「教祖存命の理」といいます。
教祖は、寛政10年(1798年)4月18日、大和国山辺郡三昧田(現奈良県天理市三昧田町)にお生まれになりました。元初まりの母親の魂のお方にふさわしく、幼少のころから慈しみ深く、信心深いご性質でした。
人間宿し込みのいんねんある元の屋敷、中山家の人となられてからは、嫁として、主婦として申し分のない働きぶりを示されただけでなく、慈悲の心いよいよ篤く、ある時などは米盗人を赦されたばかりか、米を与え、後々を諭され、また、ある時は物乞いの女に衣食を恵むとともに、背中の赤子に自分の乳房を含ませられるなど、情け深いお振る舞いはますますその度を強めました。
天保9年(1838年)10月26日、「月日のやしろ」と定まられてからは、まず「貧に落ち切れ」との親神様の思召のままに、貧しい人々への施しに家財を傾けて貧のどん底への道を急がれました。
かかる十数年の歳月のうちに、夫・善兵衞様の出直しという大節に遭われましたが、かえってこの機に、「これから、世界のふしんに掛る」と仰せられて、母屋を売り払い、さらには、末娘のこかん様を浪速の地へ布教に赴かされました。
このような常人には理解し難いお振る舞いは、親族の反対はもとより、知人、村人の離反、嘲笑を招かずにはいませんでした。
その後さらに十年ほどのどん底の道中も、常に明るく勇んでお通りになり、時には食べるに事欠く中も「水を飲めば水の味がする」と子どもたちを励ましながらお通りになりました。
こうした道中を経て、やがて「をびや許し」を道あけとして、不思議なたすけが次々と顕れるにつれて、教祖を生き神様と慕い寄る人々が現れ始めました。
しかし、これはまた、ねたみや無理解からの弁難攻撃を呼ぶことになりました。
そうした中で教祖はつとめ場所のふしんを仰せ出され、さらに、「つとめ」を教えかけられました。
「あしきはらひ」のおつとめに始まり、てをどりのお歌と手振りを教え、つとめの段取りを整えられるとともに、「おふでさき」をもって、つとめ完成への道筋を示し、世界たすけの道の全容と根本の理合いをご教示になりました。
「さづけ」を渡し、「ぢば」を定め、「かんろだい」の建設を促される一方、つとめの人衆を引き寄せ、仕込み、つとめの実行を急き込んで、ひたすら、つとめの完成への道を進められました。
かかるうちに、教えは次第に広まり、教祖を慕い、ぢばへと向かう人々は、年ごとにいや増してゆきましたが、同時に迫害、干渉も激しさを加え、教祖にも十数度にわたる警察、監獄へのご苦労が降り掛かることになりました。
しかしながら、教祖は、常に「ふしから芽が出る」と仰せられて、かえっていそいそと獄舎にお出掛けになられたばかりか、いささかも変わることなく、つとめの実行を促されました。
人々はご高齢の教祖を気遣い、官憲の取り締まりを慮って、つとめの実行を逡巡するうち、明治20年1月、教祖の御身に異状が見られるようになりました。一同は大いに驚いて思召を伺うと、神意は一貫してつとめ実行のお急き込みにありました。
神一条と応法の道の間で揺れ動く人々を、教祖は自らのお身上を通してまで、繰り返し懇ろに諭し、仕込まれて、2月18日(陰暦正月26日)、一同「命捨てても」の決心のもとに勤められたつとめの終わるころ、御齢90歳で現身をおかくしになりました。
教祖は、このように50年にわたる「ひながたの道」を残されたばかりでなく、今もなお、ご存命のままお働きくだされ、私たち人間を陽気ぐらしへとお導きくだされています。
道友社刊『ようぼくハンドブック』より